
今では日本中のいたるところに喫茶店やカフェが存在しています。東京の新宿駅をおりれば、それこそ歩いて5分置きくらいにカフェを見かけます。
そんな日本に喫茶店を流行らせるきっかけを作った第一人者が「可否茶館」という喫茶店です。まだ日本人のほとんどが喫茶店どころかコーヒーの存在すら知らない中でできたのが可否茶館でした。今回はそんな可否茶館について書いて行こうと思います。
4月13日は喫茶店の日
みなさまお盆はいかがでしたか?私は帰省して甥っ子に会ってきました。4月13日に生まれてはや4ヶ月。音に反応したり、時折笑顔を見せたりと実に可愛らしいんです! そんな甥っ子の誕生日4月13日は何の日か調べてみたところ、なんと「喫茶店の日」でした。明治21年(1888年)4月13日に日本で最初の本格的喫茶店「可否茶館」が東京の上野に開業した日とのこと。 「可否茶館」の読み方は「かひさかん」「かひちゃかん」「かういちゃかん」など諸説あります。一体どんな喫茶店だったのか、その歴史を見てみましょう。
可否茶館は現代では考えられないような喫茶店
日本でコーヒーが広まっていったのは明治時代、世はまさに文明開化のときでした。明治16年(1883年)には鹿鳴館(ろくめいかん)が建設され、いわゆる「鹿鳴館時代」が始まったことで、欧化主義がもてはやされるようになりました。 東京の町には西洋御料理店なるものが誕生し、こうした店で次第にコーヒーがメニューに加えられていきました。そして鹿鳴館建設から5年後の4月13日に東京の下谷区上野西黒門町にて「可否茶館」は開業したのです。…これだけ聞くと、鹿鳴館時代の流れに乗って喫茶店を開いたかのように思えますよね。しかし、開業の理念はむしろ鹿鳴館時代の風潮とは真逆のところにありました。可否茶館の創始者は鄭永慶(ていえいけい)という人物です。彼は海外渡航経験があり、庶民が自由に気楽に交流できる場としてのコーヒーハウスをアメリカで実際に見てきました。その経験から、欧化主義に驕れる上流階級のみの鹿鳴館に対して痛烈な批判を抱き、庶民の共通のサロン、知識の広場の設立を理念としていました。 そのため可否茶館は西洋館二階建ての中に、ビリヤード、トランプ、クリケット、碁、将棋と娯楽だけではなく、更衣室、化粧室、シャワー室まで完備していました。さらに硯と筆、便箋と封筒も常備してあり、国内外の新聞や雑誌を置き、図書館を目指して各種の書籍や書画を自由に閲覧できるようにしてありました。
可否茶館創始者の鄭永慶とは?
上述のような喫茶店をつくってしまう鄭永慶とはどんな人物だったのでしょうか?名前だけ聞くと外国人のような感じがしますが日本人です。父が外務官だったため、14歳にして英語・仏語・支那語の3ヶ国語を習得しています。 16歳のときにはニューヨークのエール大学に留学、エリート人生を歩んでいました。でも5年後、病気のため大学を中退し帰国します。キャリアに挫折した永慶は地方で教職をした後、エール大学時代の友人の縁故で大蔵省に入ります。しかし学位がなく重用されず辞職、さらに家が火事に遭い、職も家も失ってしまいます。そこで永慶は友人から借金をし、父の土地に新しく西洋館を建てて再出発する決心をします。元々は育英事業として学校を設立したいと思っていましたが、莫大な資金のあてはどこにもありませんでした。 新築の西洋館を目の前にして、最後の最後まで学校か喫茶店か迷っていたようです。結局のところ、生活苦から少しでも儲ける必要があるため学校を諦めて喫茶店として開業することとし、「可否茶館」は誕生します。
可否茶館の経営は…
可否茶館では、コーヒーを一銭五厘、牛乳入りコーヒーを二銭で売っていました。当時のそばが八厘から一銭くらいの値段だったので、安くはないことがわかりますね。商売はうまくいかず、可否茶館は5年足らずで閉業することとなります。 短命ではあったものの、鹿鳴館時代に一般庶民が利用できる喫茶店を開業した永慶の実績は、日本のコーヒー史において特筆すべきことでしょう。結局、借金で首の回らなくなった永慶はアメリカに密航し、その地で亡くなりました。 以上、「喫茶店の日」ウラ話でした。もしも病気による大学中退、火事による生活苦などがなかったならば、可否茶館は誕生していなかったかもしれませんね。いつも私たちが気軽に利用している喫茶店ですが、その始まりには一人の男が掲げた崇高な理念と人生のドラマがあったのです。